2001年9月1日15時12分
< 回想録・第六話  バンドに歴史有り その3 >

 1994年4月、初めて恵比寿の「ギルティ」に出演して以降、我々マーマーバンドはほぼ毎月欠かさずにライブを続けた。前売りチケットにオマケで付ける目的もあって始めたデモテープシリーズの制作だったが、その年の夏を過ぎたあたりで完成した「CIAO 4」で、俺達は「何かになりつつある自分達の音」を感じていた。ここに収められている5曲は、かなり長い間演奏され続け、しかもその後も繰り返しリアレンジを施されたりしたのだ。「どうやらかなりいいバンドになってきた」と、みんな実感していたと思う。

『の・さ・ば・れ』
 これが完成した時、多分4人全員が「やった!これでどうだ!」と内心叫んだはずだ。初めてバンドらしいプロセスを経て完成させただけに、このバンドらしさがそこここに滲み出ていたと思う。

 ある日、この曲のアイディアをチャオが一人で録音して俺と豪君に聴かせてくれた。あくまで大ざっぱに作った物だったので、正解のメロディーがよく分からない程音痴で、しかも変テコなダンスビート(とも呼べないような)のリズムが入っていたおかげで豪君は気持ち悪くなってしまった。俺は彼をなだめつつ「でもこれ、面白いよ。コトバが飛び出てくる。みんなでちょっといじろうよ」と提案した。

 この頃、豪君は後藤まさる師匠にパーカッションを教わり始めていたので、一般に「スリー・ツー」と呼ばれるラテンのリズムを取り入れようと思いついた。俺は曲の頭と最後に全員ユニゾンで「ラララ」のテーマを付け足し、ゆたちゃんはスライドギターのアイディアを持ってきた。そして、ほんのちょっとだけラップもどきの(ラップを追求している人には怒られるだろうが)掛け合いコーラスを考え、場面ごとにリズムを変えてそれをうまく繋いで完成させた。

 出来映えは上々で、すぐさまライブのオープニングナンバーの定番に収まった。お客さんに「あの曲かっこいいですね。チャオさん、良い曲作りますね」と誉められる度に豪君は「でも最初は本当にしょうもなかったんだぜ!」と繰り返し訴えていた。しかしその言葉は、バンドの共同作業がうまく機能し始めた事に対する満足感の裏返しだったと思うのだ。

 また、この曲は初めて電波に乗った我々のナンバーになった。「ギルティ」のマネージャーがラジオ番組に推薦してくれたのだ。もう何という番組だったかも忘れたが、その時のDJが「このバンドはいろんな事を身につけた上で何かを信じて演っていると思います。ぜひともこのままの勢いで音楽シーンの中でも『のさばって』欲しいですねえ」というコメントをつけてくれたのが本当に嬉しかった。多分、他のメンバーは覚えていないと思うけど...。

 4年後にメジャーで発売されたアルバムにもこの「の・さ・ば・れ」は収録されている。よりフォークロック色が増したアレンジになっているが、俺としては思い入れの部分も含めて、最初のオリジナルアレンジの方が好きだ。


 
『鐘の鳴る丘』
 これは俺が前回の「愛ある暮らし」に続く「一郎のラブソングシリーズ第二弾」として作った曲だ。曲も詞も、それまで俺が作ったことのないようなスタイルで出来ていて、自分でもどこから湧いてきたのか不思議だったが、このバンドに参加して徐々に受けてきた他の三人からの刺激が少しずつ俺の中で形を持ち始めた結果だったと思う。ちなみにこの曲のモチーフは、子供の頃映画館で観た「幸せの黄色いハンカチ」だ。今、歌詞を見返すとやや安直なきらいはあるが、架空の舞台で架空の物語を作るやり方は俺にとっては画期的だった。

 豪君は常日頃から「愛だ、恋だ、とウダウダやってる曲のほとんどを、俺は『フニャチン・ポップ』と呼んでいる」と揶揄していたが、どういうワケかこの曲に対しては最初から結構好意的だった。コーラスアレンジはいよいよ手を変え品を変えの様相を呈し、それぞれの声の役割も何となく固定化され始めた。

 この曲は完成後しばらくの間、「愛ある暮らし」と代わりばんこで、ライブにおける「不動の二番打者」(つまり2曲目)として演奏された。女性のお客さんに好評な事が多く、チャオは俺を「当劇場が誇ります『ハーレクイーンロマンス』一郎ちゃんです」と紹介し始めた。しかし、曲は好評でも、俺に対して個人的にファンレターが来るなんて事はちっともなかった。他の三人にはそれなりにあったのに。そして、俺の全然モテない人生が始まった(まあ、別にどうでもいいかも知れないけど)。

『言葉のない町』
 この曲は、マーマーバンド初の「合作モノ」の一つだ。徐々にお互いに対する音楽的信頼感が高まり、自分の作品の一部を他のメンバーに預けるという試みが始まっていた。
 最初にチャオが自分の歌詞にメロディーをつけて持ってきた。俺はよく「チャオは歌詞に比べてメロディーに対する執着が薄いと思う。とりあえず形になったらそれ以上追求しないんじゃない? もっと吟味して完成させてみたら?」などと偉そうに意見していたが、この「言葉のない町」に彼がつけたメロディは彼なりにその意見を取り入れた物だった。

 しかし、ここで豪君が一言「この歌詞でこのメロディは重いんじゃない?」。チャオは「それなりに追求して作っちゃったから、かえって違うメロディが浮かばない」。で、ゆたちゃんが「じゃ、俺が来週までに試しに作ってくるよ」という事になったワケだ。彼はそれ以前の作風とはガラリと変え、アコースティックギターをメインにしたファンタジックな曲を持ってきた。ビートルズ中期のある曲がモチーフになっていた(知っている人なら分かるかも)が、それまでの我々にはない曲調だったので、それが採用になった。

 以後、この曲に似たタイプの物は誰も作らなかったので、実にいろんなバージョンで演奏された。この「CIAO 4」バージョンでは豪君がリードヴォーカルを担当。その後、メデューム・レコードから発売されたテイクではチャオが歌い、バンダイ・ミュージックから出た時はアレンジも大幅に変わり、前半は新メンバーのミコト、中盤が俺、後半はチャオが歌う形になった。我々のレパートリーの中でも独特の位置づけになっている。

 俺は、この頃のチャオの作詞能力は冴え渡っていたと思う。『口先は目の色越えず、引き金に変わる』なんてフレーズ、ちょっと強力なセンスではなかろうか? 何をテーマに歌うか、という点では、まあ、我々はそれほどたいした事はないと思うが、どんなコトバで、となると、自分達の事ながら面白いと思う作品は結構多い。チャオはその中心人物である事は間違いないのだが、その彼が敢えて『言葉のない町へ行きたい』と歌うこの曲に人生の機微を感じる。
 ちなみに、最初にチャオが自分で作ってきたメロディーは、ずっとあとになって全く別の曲の一部として復活した。それがどの曲かは、リスナーのイメージを壊すので、ここでは敢えて伏せておこう。

『鉄人とハーモニカ』
 この曲の完成は、マーマーバンド(その頃は「CIAO」と名乗っていたが)初期における俺にとっての金字塔だ。
 バンドに対する愛着心が増すにつれて、俺には新たな切なる目標が出来ていた。それは、本当にしょうもない話に聞こえるかも知れないが、他のメンバーにウケる(もちろん音楽的に)事だ。

 このバンド以前の俺は常にバンド内のリーダー的存在で、バンドの方向性もソングライティングも最終的には俺が仕切ってきた。しかし、ここでの俺は、一番後に入った人間で、しかも一番年下だった。さらに、俺以外に既にヴォーカリストは存在し(というより、全員なのだが)、俺が何もしなくてもみんなが曲を書き、誰かが歌い、アイディアを出して完成させられる。それはまさに、俺が長年憧れていたバンド像とも呼べる素晴らしい状況で、新鮮その物だった。

 が、俺が自信を持って提示したアイディアを却下されたり、難色を示されたりした経験はそれまで殆どなかった。あったとしても、そんな時の俺の心は「この良さが分からないなんて、こいつは才能が無いとしか思えないぜ。まったく、やんなっちゃうなあ」という物だったのだ。

 しかし、このバンドの場合、タイプこそ違えど、侮れるヤツは一人もいないという事を半年間の活動の中で俺は思い知らされていた。豪君とチャオの場合は、通ってきた道が全く違うので、俺の知らない種類の経験値をたくさん持っていた。もちろん相変わらず俺は自分に他する自信は微塵も失っていないつもりだったので表面上は平然としていたが、事あるごとに近視眼的になりがちな自分に気づかされていた。

 でも、俺は居心地が悪いと感じた事はなかった。それは、野田という所を機軸に始まったバンド内ではある意味「よそ者」である俺に対し、みんなが随分気を遣ってくれたからだ(と、あとになって気づいたのだが)。俺の意見を却下する時もかなり言葉を選び、またかなり妥協もしてくれていたと思う。それでも徐々に、俺の意見にみんなが喜んで賛成しているか、いないのかが分かるようになってきた。そして、俺が音楽の中で最もこだわっていたのがメロディーだったから、何とかして俺のメロディーをみんなに大好きになってもらいたい、そんな曲が出来た瞬間が本当にこのバンドの一員になれた時だ、そう思い始めていた。

 この「鉄人とハーモニカ」はチャオの作詞で、彼の作品の中でも特別な物だ。野田にはプロ・アマ混在の独特の音楽コミュニティが存在している。彼もその中で育ったのだが、この年の夏、その野田のコミュニティの元祖のような存在で、みんなに慕われ、またチャオや豪君にとっても素晴らしい友人であり人生の大先輩である人物が不幸な事故で亡くなったのだ。俺はその人が歌う姿を一度観ただけだったし、残念ながらほとんど縁はなかったのだが、彼がみんなにとって大切な人だったらしいという事は充分に感じられた。そして、その人の事を歌ったのがこの曲なのだ。

 俺はその歌詞に合わせてメロディーを作り、みんなで歌った。本当に数え切れないくらいの回数を歌った。ライブハウスで、野外のイベントで、TBSテレビの「えびす温泉」で、路上で、CD屋の店先で、パーティー会場で、そして何度も出させてもらった野田の「月祭り」と「花祭り」で。 俺のメロディーが俺達のメロディーになったと思った。

『Different Road』
 ある日、野田でのリハーサルの帰り道、俺は車の中でふと流れた曲に耳を奪われた。「あれ、何だろうこの曲。何だか懐かしいようなメロディーで、結構好きだな。最近、こういう曲って世の中にないよなあ...」と思った。

 どこかのラジオ局が『隠れた昭和の名曲集』とかを企画しているのかと思い、ボリュームを上げてみたら、よく聴くとそれはチャオの声だった。「そういえばさっき、ダッシュボードの上に放っておいたテープを入れたんだっけ。ところでこれは何のテープだろう?」

 それは数日前、チャオが俺に「ちょっと一曲作ったんだけど、聴いてみてくれない?」と渡してくれた物だったが、すっかりその存在を忘れていたのだ。その次のリハーサルまでに俺は、イントロとキャンディーズのパロディーの後奏を作り、みんなに「これを演ろう!」と提案した。まだ「つんく」とかがブレイクする前だったので、こんな歌謡テイスト溢れる曲は全く巷には流れていなかった。俺自身、そういう物を自分がバンドに取り上げたい思った事があの時は意外だったが、今となっては、自分がまさに『昭和生まれの日本の子供』である事を認識しまくっている。

 この曲でサビに行く前に出てくるバックコーラスは豪君と俺がやっていて、豪君が考えてくれた物だが、最後に二人の音程がぐっと離れるのが「ポールとジョージがやってる感じ」だと説明してくれた。彼にとっては何て事ない知識だっただろうが、あまりに効果的なそのアイディアに俺は目からウロコが落ちる思いだった。以後、俺はビートルズを聴きまくった。もちろん、いろんな意味で偉大な存在であるのは分かっていたが、ただ単にコーラスグループとしてだけでも凄い。とてつもなく簡単なのにあまりに印象的なフレーズや、何気ないように聴こえるのに実は凝りまくっているコーラスアレンジの数々。俺のハモり好きは筋金入りだったが、その中身がかなり変わった。

 この「Different Road」はその後、そんなに多く取り上げられなかった(最近三人になってからよく演るが)どちらかというと地味めな存在の曲だが、実は俺にとってはいろんな意味で、密かにエポックメイキングな一曲なのだ。

 


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