2001年5月8日14時14分
< 回想録・第一話 >

 1994年、あの天才F1ドライバー「アイルトン・セナ」が事故で死んだ年。
 俺はマーマーバンドに加入した。
 まる2年間、バンド活動というものをやっていなかった俺は、
「ワン・ツー・スリー・フォー」で「ジャーン」とみんなで始まる音に飢えていた。

 当時、豪宙太とチャオと今は脱退してしまったユタちゃんの3人でやっていたそのバンドは
 「プノンペン合唱隊」と名乗っていて、すでに2回ほど都内でライブを行っていた。

 しかし、そのライブでは豪宙太はドラムではなくベースを弾いていたのだ。
 ドラムは別の人がやっていた。
 そのバンドは「全員が歌えるバンドをやろう」という企画で始まっていたのだが、
 ヴォーカルが取れるベース弾きが見つからなかったらしいのだ。

 で、ある日、ユタちゃんがうちにやって来て
  (彼と俺は1992年まで一緒にバンドをやっていた)言った。

 「ちょっとギターでも弾きに野田まで来ない?」

 そして彼は俺にそのバンドのデモテープを聴かせてくれた。
 そこに入っていた1曲目が「Battle Game」で、その時初めて俺はチャオの歌声を聴いた。
 瞬間的に俺は「パンクな歌手だ」と感じた。
 2曲目は「凧の唄」だった。聴いた瞬間俺は「音痴な歌手だ」と感じた。
 あとの2人がコーラスで四苦八苦している。
 総合的には、「すごいバンドだ」という感想は持たなかった。

 しかし、全員で歌う、というコンセプトが俺を惹きつけていた。
 それは、思えば中学生の時、初めてバンドらしき物を結成した頃からの、俺の夢だったのだ。

「行くよ、野田まで。」

 そして数日後、俺は千葉県野田市青少年勤労ホームの器楽練習室にいた。
 そこでユタちゃんが

「これ、今作りかけの新曲なんだ。簡単な曲だから、
 覚えて適当にギターとコーラス入れてみてくれない?」

 と取り出したテープをラジカセにセットした。
 それを聴いた時の衝撃、
 そして、その曲を「とりあえず3人でやってみるから」と、
 ナマの演奏を聴かされた時の更なる衝撃は今でも忘れない。
 あらゆる意味で、その時の俺のツボを全部同時に押されたような感じだった。

 俺は興奮を隠しながら、少しずつコーラスハーモニーのアイディアを出し、
 ツインギターのフレーズをぎこちなく弾いた。
 その日から現在に至るまで、俺の野田通いの日々は続いている。

 そして今でも
 あの時聴いたその新曲「どしゃぶり」が放った何かを越えるために挑戦を続けている。

 


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